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鎌倉幕府の鬼門(1) 菅原道真

 大学の一部の試験を残し、入試もほぼ終わりました。入試というと毎年正月に鎌倉の「荏柄天神社」にお守りを頂きに行くのですが、先日、子どもから『なぜ荏柄天神が鎌倉幕府の鬼門に置かれたの?』『鬼門って何?』『菅原道真はなぜ流されたの?』など質問をされ困ったことがありました。

 

 鬼門になぜ天神なのか?鬼門を真面目に応えると道教・陰陽道・風水・・・それこそ安倍晴明まで話がいってしまうので、どこまでこたえるべきなのか? 難しい話です。

 

 

 そこで、少し「鎌倉幕府の鬼門」に関して四方山話を書こうと思います。

 

 

鎌倉幕府の鬼門(1) 菅原道真 

 

  菅原道真(845―903)は、祖父 清公・父 是善(これよし)は大学頭・文章博士で、母方の伴(とも)氏は大伴旅人・大伴家持ら高名な歌人を輩出しました。宇多天皇・醍醐天皇に重用され、生前には右大臣・右大将・従二位までなりました。

 894年には唐朝の混乱や日本文化の発達などを理由に遣唐使停止を建議しました(907年唐滅亡)。  

 897年には娘を宇多天皇の子・斉世親王(ときよしんのう)の妻としましたが、後に斉世親王を皇位につけ醍醐天皇から簒奪を謀ったと藤原時平に讒訴され、901年大宰府に左遷。2年後の903年、大宰府で死亡(59歳)。左遷にあたって「東風(こち)吹かば匂(にほ)ひおこせよ梅の花主(あるじ)なしとて春な忘れそ」と詠んだ自邸の庭の梅の木が、後世に筑紫(つくし)などに飛んでいったとする「飛梅伝説」は有名です。

 死後、909年道真の政敵藤原時平(39歳)で病死、923年醍醐天皇の皇子で時平の甥 保明親王(21歳)病死、同年右大臣に復し、贈正二位。925年保明親王の子 慶頼王(やすよりおう:5歳)が病死、これらを道真の祟りだと恐れられました。930年太政官の会議中の清涼殿(天皇の日常生活をおくるところ)が落雷を受け多くの死傷者が出ました。清涼殿落雷の事件から道真の怨霊雷神と結びつけられました。京に住む綾子という女性が「菅公の怨霊を鎮めるために、北野の地に祠をつくれ」という霊夢を見たことをきっかけに、947年 元々地主神として火雷天神が祭られていた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとしました。以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられて、「天神様」として信仰する天神信仰(天神すなわち雷神を信仰)が全国に広まることになります。993年追贈正一位左大臣。太政大臣を贈られます。

 天神(道真)を祀る神社は天満宮・天満神社・北野神社・菅原神社・天神社などという名称で、九州・西日本を中心に約一万社あって、福岡の大宰府天満宮・京都の北野天満宮・鎌倉の荏柄天神社を三天神社と称されます。

 荏柄天神社(祭神 菅原道真)は、1104年晴天の空が突如暗くなり、雷雨とともに黒い束帯姿の天神画像が天降り、神経をおそれた里人などが社殿を建ててその画像を納め祀った縁起に始まります。

 

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